昭和54年4月3日 朝の御理解

御理解 第3節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」



 こう、一通り読ませて頂いただけで感じることは、もういよいよ合楽理念が完璧だということですね。合楽理念に説かれるところ、ここの天地の親神様の、いうなら心を心として、余すところなく解き明かし、いやまた、より明かそうとしておるのが合楽理念です。「天地の間に氏子おっておかげを知らず」とあります。天地のことが段々、いうなら天地の心が分かってくる。そこに神恩の広大無辺ということが感じられてくる。その広大無辺の限りないおかげの中にあって、おかげを知らず。だから金光教以外の宗教は全部おかげを知らずということになるでしょう。ね、広大無辺の限りないおかげの中にありながら、いわゆる広大無辺と思っていないわけです。第一分かっていない事は、自分の物でもない物を自分の物のように思う、思い方、ね。「日柄方位ばかり見て無礼いたし」とある。もうここに至ってくると、いよいよ宗教がいかに、まあ、全部が違っておる訳じゃないけれども、天地金乃神様の、その反面を頂いておるというに過ぎない事が分かってまいります。「天地の間におっておかげを知らず」その天地の間におっておかげを知るという事が、だから信心なんです。金光教の信心なんです、ね。もうほんとにここのところを頂いただけでも、もう理屈じゃないですね、ええ。理論じゃないです、ね。言うならば理屈を作ったり、理論的にそれば述べようといたしますとね、それこそ、なるほど日柄もあるな、方位もあるなというような事になってくるんです。けどもそれをひっくるめて、また大きく頂くと、ね、天地の間におって氏子おかげを知らずという事になる。その天地のおかげを知るという事になると、もう一切がおかげであるという事であり、神愛の現れであるという事が分かってくる。このへんのところが、いわば合楽理念は、もう大変、まあ粒さに色々な角度から説かれるわけですね。すっきりしてくるわけ。「今晩、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」ともう、こんないうなら懇切丁寧な宗教が他にあるだろうかと思うです。「今晩、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け」と。ね、何にも分からん、ね、分からんけれども、とにかく氏子が願っておるおかげをまず授けて下さって、そして後に理解を申して聞かしてくださろうと、こう言うのです。その理解申してくださる事が、天地の中にあっておかげを知らずという事わけが説かれるわけです、ね。そして神様がいよいよ末々までも、ね、末々繁昌いたすこと。と、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。いよいよ合楽世界の顕現です。ね、神も助かり氏子も立ち行くとか、あいよかけよとか、ね、または氏子上下立つようにいたすという神の願い。ね、神の犠牲になるとか、氏子の犠牲になるとかといったようなものではないわけなんです。上下立つようにいたすという事は、もういよいよ、ね、合楽理念が分からしてもろうて、ね、もうお互いの言うならば、真心の、真の出し合いとでも申しましょうか、ね、そこに一体渾然とした拝み合い、天と地とが拝み合う、そこから、ね、鶴亀の舞い遊ぶようなおかげとこうおっしゃるような、ね。いよいよ上下立つの上を天地の親神様とするなら、下という事をいうならば氏子というふうに頂いてもよいでしょう。神と氏子とが、ね、言うなら仲良うしながら生みなしていく世界、ね。いわゆる合楽天国建設の願いがここにはっきり言われてあるわけです、ね。合楽天国の建設の願い。私は、だからこの御理解3節は教団でも大変重く見られてあります。それでもうあらゆる教徒から色々に説かれてありますけども、合楽で説くところ、いつもそれと違うんです。例えば教典なんか、まあ特別違う感じがいたしますね。天地の間におっておかげを知らずという事が今日は大体強調されておりますね。今日の、今お話しておる事。だからここだけでです、なら他の宗教が、まあいわゆる、おかげを知らずという事になるでしょうが。ね。罪のために、ね、不浄がかかっておるから、それでまず払わなければいかん。払い損なうならいつまっでん助からんという事になる。ね、キリスト教の原罪を持ち出してくると、ね、とにかくこれだけはもう絶対助かりようがない。食べる事のない物を食べたから、もうそれは、もう人間のもう、人間がおる限りこの言うならば罪というものは私共に、とにかく十字架を背負わせてしまう事になるのです、ね。例えばなら教祖金光大神の場合にゃ、そこんところがですね、神様のお恵みの物として御の字をつけて頂くという事になるのですから、有り難くお礼を申上げねばならない事を、お前は食べちゃならん物を食べたというようなふうに表現してるわけです。もうお釈迦様のいわゆる輪廻とか因縁と言うたら、いよいよもって助かりようのない事になってくるです。これはもう説明を聞くとですね、もう理路整然ともう、もっともなるほどと合点のいくように説いてありますです。ね、だからいかに説いてあっても、それが真のように説かれてあってもです、ね、それによって、そういう難しい事を勉強すりゃ勉強するほど助かるという事にはつながらないわけです。人間が助かっていくという事にはつながらないのです。そげなこっじゃなかって、もうそれこそ親と子じゃないかと、詫びれば許してやるというのが親心で、お終い(笑い)終えてくるです。おかげはもう和賀心とおっしゃるんですから。人間の幸せの条件の全てがです、その和賀心ひとつに集ってくると言うのです。それでなら、和賀心になってしまわなければおかげはやらんとおっしゃるのではなくてです。ね、そうだと悟らせてもらい、分からせてもろうて、限りなくその和賀心を求めていくという生き方。ね。祓い清める事もなからなければ、ね、食べてはならんという物はない。ただね、食べ過ぎてはならんとかね、身を慎めとかはありますよね、やっぱ。いきなり食べちゃでけん、ね、あんまり食べちから飲み過ぎて、あくる日頭が上がらんちゅうごたる事はこりゃ、(?)て天地の親神様に対して、その、お恵みのぼうとくです。ね、けれどもたまにはそれがありますから、それでもです、ね、詫びれば許してやるというのが親心と。今日は、私はどういうことか分からなかったですけども、あの、もうとにかくあの、スルメを足のとこと、ちぃとばっかり、こう、こう鉄球ん上で、こう誰かが焼きよる、その匂いがぷんぷんするとですよ、スルメの匂いがね。高いでしょう(?)、あのスルメを焼く時の匂いが、ね。そしてからその人が「はー、あのー、たったこれだけでんこげん美味しゅうしてから、あの、こげんおかげ頂くならば、こりゃ一匹みんな焼いたら、そこに近所に何人もおると、この人達にやったら、この人達も喜ぶばってん、やっぱり自分だけで食べよう」ち言いよるところを頂いたです。(笑い)ね。だからほんと、そん、それこそ日々の改まりが第一とおっしゃる、その、スルメは改まりの事ですけれども、ね、もうこげな事(いっちゃご?)するめと、例えば飲みすぎるような、しすぎるような。ね、食べすぎるような。ことは、ね、それこそ(おやば?)にのるといったような心が人間の心の中にあるわけですけれども、ね、そこんところを慎むということは説かれてあります。それでも、食べ過ぎたからお前はばち当てるというんじゃ、おっしゃるように詫びれば許してやりたいのが親心、もうこれからは飲みすぎるような事は絶対いたしませんからと、という心になれば許してくださろうという神様。私は今日は改めてこの御理解3節をですね、えー、言うならば、言うならこの合楽理念は、もう完璧なまでに説いてあると思うです。昨日は高橋さんところの、まあ恒例の謝恩祭でございましたが、神露という、あの御神酒があります、その神露という神の露と書いてある、その露という字をこげーん難しゅ書かんでんよかろうばってんちゅうごたる字で書いてあるところを頂いたです。雨を書くでしょ、雨、雨冠ね、して下にこん路、いわゆるみちという字が書いてある。私共が信心が難しいというけれども、信心は見易いもんだけれども、ね、その見易いところまでに、頂くことが難しい。ね。それはどういうことかと言うとです、ね、お天気も有り難いなら、ね、やっぱ雨の日もまた有り難いということがわかるということです。お商売で言うなら儲かったという事も有り難いなら、損したという事もまた有難いという事なんです。痛い痒いに至るまでです。痛い思いをさせて頂く、ね、辛い思いをさして頂く。ね、これはなら人間関係とか、ね、言うならば、あー、それこそ貧ほど辛いものはないというような、その辛さ苦しさもあるけれども、その芯が有り難いと気づかせて頂く。昨日私は、あのすぐしきりにその事を思ったから、まあ皆さんに聞いて頂いたんですけれども、んー、あのすぐ近所におられました松枝さんという方ん所へ月々参っ、毎月、借りておる商品代が払えずに、毎月断りに行った話を皆さんが、よく聞いてくださる。ね、もうそれこそ確かに貧ほど辛いものはない。けれどもこれは病気をして苦しむと、もう病気ほど苦しいものはない、ね。人間関係なら人間関係で苦しむと、もうほんとに金も物もいらん、もうほんとに家ん中が円満にさえいくなら、(笑い)というように、とにかく死ぬほどにということになりますとね、みんな同じ苦しさはある。けどもこれはおそらく貧乏した者の言葉だと思うです。しひゃくしぎょうの病より貧より辛いものはない。これは貧乏した者の言葉なんです。ね。私もそれは実感しました。もう金の断りに行くことの辛さというものはもう、こりゃ、ほんっとに辛いです。こげん辛いことはないですやっぱり。ね。けれどもある時の、いうならば断りに行かせて頂く時にです「こりゃあ神様が大坪総一郎に力を与えたいばっかり。末は、末はそれこそ横綱か大関かというくらいに神様が私に対して見込んでござると。だからこそこのおき耐えを頂いておるんだ」と悟らせて頂いた途端にです、私の心の中には、もうそれこそ勇気百倍と言うでしょうか、もう意気、それこそ揚揚として断りに行くことが出来た。いうなら雨もまた有り難いとわかったわけです。風邪もまた有り難いとわかったわけです。ね。私を鍛えずにはおかんという働きであることを悟ったわけなんです。なるほど、こう雨のその露でいうとその道という字をね、大変難しゅう、そりゃあね、御神眼で頂くのはそれにタイトルがついてますからね、そのただ普通にこう書いちゃるばってんそれが感じるのがもうこげーん難しゅう書かんでよかろうのにという感じなんです。ね。だから実際わかったら、いうなら見やすいもんです、大体は。ね。それっきりでした、「もう大坪さん借金の断りはもうこれきりで?よかばの」と、ね。「もうできた時払いでよか」と。もうそれこそ私が断りに行くと、まあ見とる方が術んなった、なんなさったわけです、向こうん方が、ね。そして、えー、それから5、6年もしてから椛目で人が助かるようになって、ちょうど福岡の教会の御大祭の時に、そのことを( ? )先生達から聞かせてもろうて、秋永先生と支払いに行った。ところがもうそのお金は取らんとこう言うわれた。それでその後に高橋さんがもうその時すでに参って来よりましたから、高橋さんにそれこそ、自動車一台、色んなものを、甘辛、甘が辛の後に揃えてお礼に行ってもらったことがございました。その話を昨日、私しきりに思い出しましたから聞いて頂いたんですけれどもね、そのいうなら露という字、私はそれこそ露の一滴、神様の一滴は、ね、もうどれだけあるやら実はわからんのです。神露です。神の一握り、人間の一握りはこれだけだけれども、神の一握りといやあ、どれだけあるやらわからんとおっしゃる。神の一滴というたら、もうどれだけあるやらわからん、しかもそれが限りなく頂いていけれるというものなんです。神意が難しいというのは、そこん所が難しい、けれどもなら合楽理念はそこをわからして頂く、ためにはもうあらゆる角度から説くわけです。ね、一切が神愛ばい、ということです。もうお礼申上げる他なかが、とこういうことなんです。それが実感としてお礼が言えれるようになった時、おかげを受けるじゃなくて、それからがもう徳の道づけがついてくるわけです。そりゃあね、それこそこの世、あの世を通して、いわばあの世にも持っていけ、この世にも残しておけるというほどしのおかげを頂く、お徳を頂こうと言うんじゃけん、そこんにきは私はそんくらいのことは、やっぱあるのが当然だと思いますね。それをわかろうと努めないならばです、ね、それを頂こうと努めないならば、合楽通いの値打ちはなかと、金光様じゃなくてもよかと、〇〇教会でもよかと、ね。そこんところを私はわかるために、やはり言うならこのご理解三節をほんとにわからして頂くと、なるほど金光教という宗教は前代未聞の宗教であり、宗教以前の宗教である。しかも天地の中に起こってくることその一切を神愛とわからしてもらうという、ね。だから金光様の信心すると、例えばお金を持っとってもいっぺん、なら貧乏になってしもうて、せにゃんちいう意味じゃ決してないです。今もっておるその、なら財産なら財産に徳の裏付けというものがないなら、これは、私は昨日そのことを、んー、とにかくどんなに商売が順調に行って(?)やりようが、とにかく時代に受けて、そして大繁盛のおかげを頂いても、ね、その繁昌は絶対繁昌が繁昌にはならんて。子供がかえって難儀するて、ね。必ずいうならつぶれると、そいういうのは、ね。だから徳の裏付けというものをです、頂く、ならここにえー、ま、あー、たくさんの財産を持っておる人、こりゃ合楽に参りよるならこの財産がなくなるどんするなら、どんこんされんじゃなくて、その持っておられる財産に、いうならば徳の裏付けがでける精進を一生懸命していったらいいわけです。そこで、そのいうなら困ったとか難儀とか、損したとかという事がもしあった時には、ああ、それに今この持っておる財産に裏付けがでけておる時だというふうに、まあ、悟らして頂けと、こういう事です。ね。
 これは福岡のご信者さんが頂いた御理解の中に、んー「ままにならぬと ままばちなげりゃ そこりゃあたりはままだらけ」という(笑い)ね。私は昨日この話をさせて頂きよってから、あのー、いつもここで頂きます都都逸の文句の、を話そうと思ったらコロッと忘れたんですよ、その(まくら?)んところを。したら今もまたコロッと忘れた。どうして忘れるじゃろうか、こげなん素晴らしい、私が頂いて、あの時に、その実感としてね、えー、水攻め火攻めも結局はままになるためだという、都都逸の文句があります。(  ?  )私はどうしても、だからね、そのみなさんにここのところば芯から分からせて頂くために私は忘るるとじゃろち昨日から思いよるです。今もちょっと思い出すごつして思い出さんもん、ね。えっ何の?(修行生の先生が何か言われる)(笑い)みんなお互いね、んー、米のおまんまを食べられるおかげを頂きたいでしょうが。ね。そんための火攻めであり水攻めであるということ。だから火攻め水攻めちゅうと( ? )んごつなりますけれどもね、ね、その水攻め火攻めが有り難うしてこたえんごとなれる道が合楽では説かれるわけなんです。ね。それには、神様が私にかけられる願いというようなものに気付かせて頂くとです、ね、それこそ勇気百倍してくるということなんです。ね。そこをです、やっぱ合楽で信心の稽古をするなら、その露という字の路という字が大変、難しゅう書いてあるという、難しいごたるけれども覚えてしまや難しいこっちゃない。そんためには、そこんとこにやっぱ一心不乱というか、一心発起がなされないと、そこんところの、いうならば雨にももったいのう頂くとですけん、そこはいっちょお互い頑張らせて頂いて、頂き抜かせて頂くと、後は楽。
 今日は御理解三節のね、を、これをほんっとに、もう金光教の、が、宗教以前の宗教だと、前代未聞だと、いうならもう右と左が足ろうたと、天地が足ろうたと、ね。というふうに最近いろいろ説かれます信心をこのご理解三節には合楽風に説かせて頂くと、もう完璧に説いてあり、教えてあるのです。ね。願う氏子におかげを、を授け、その理解申して聞かせというところを、みなさん今頂いておるわけです。だからこの「理解申して聞かせ」んところを本気で頂いてです、ね、ほんとにお礼申すこと以外にはないというような信心を体得させて頂いて、ね、初めて、いうなら神の願いが地上になる、そのいうなら合楽天国の神の願い、ね、その建設の、を神様が願うておられる。氏子と神とが、ね、裃立つようにいたすというおかげになってくる。合楽建設の神の願いを、いわば、キャッチするということ。ね。ですから、その、どういうことかというと、雨も有り難い、お天気の日も有り難い。そこには神愛あるのみと、どんないうなら小さい問題であろうが大きい問題であろうが、その問題の中身は神愛で一杯なんだと悟らせし頂く時に、ね、いわゆる嫌が上にも和賀心は生まれてくるわけです。ね。今まで不平不足を言うたり、悔やんだり腹を立てたりしよったことが、段々、ならいっぺんにはできませんけれども、それをやはり繰り返し繰り返し稽古さして頂いておるうちにです、ね、それがほんとになるほどだという、いうならば実証、ね、それをいよいよ実験していくうちに、ね、実証、そういうおかげの、が形に現れてくるようになる。そしていよいよ完全に私共は神様の願いの中にある私共、おかげを受けてくれよという神の願いの中にある私共であるということがわからせて頂く時にです、初めて合楽世界の顕現ということになるのではないでしょうか。私はここを今日、みなさんに聞いて頂いたような頂き方、説き方をするならば、金光教の信心がどんなに優れておるか、素晴らしいかということがわかると思う、そしてそれをわかっただけではなくて、の、これだけのおかげが受けられると、その実証を示しながら、ね、いよいよもって合楽示現活動に参画さしてもらわなんならんと思いますね。どうぞ。